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39件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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1950-07-22 第8回国会 衆議院 建設委員会 第4号

ことに今回の世界大戰のさ中においても、ことにわが奈良が爆撃の目標から除外されたのは、奈良の持つ人類文化を戰火から守ろうとする、國境を越えた文化愛の願望であり、今この残された日本の宝庫ともいうべき奈良市をして、さらに新しい平和文化国家の象徴として擁護することは、奈良市民のみならず、日本国民すべての責務であります。  

東井三代次

1949-08-25 第5回国会 衆議院 建設委員会 第24号

次に愛媛縣内について申しますと、第一に、西條、高知を結ぶ予土連絡道路は、山間部十六キロ間、未改修のため、自動車の運行不能でありますが、これを改修することにより、土佐國境の莫大な資源の搬出が可能になりますので、早急なる改修が望まれております。  第二に、今治市戰災復興事業は、現在三〇%程度の進捗率でありますが、今年度より、補助率が二分の一に減つたため、市有林等拂下げて、震災復興につとめております。

高倉定助

1949-05-22 第5回国会 衆議院 運輸委員会 第26号

並木説明員 この墜道北海道膽振日高、十勝をつなぐ冨内、御影間鉄道のうち、膽振日高國境に掘鑿中の延長一キロ六十メートルの墜道であります。この鉄道の現況から申し上げますと、富内、振内間は路盤工事が大部分竣工しておりますが、日振墜道の一部工事が未完成になつております。また振内右左府間は線路の設計は済んでおりますが、まだ工事に着手いたしておりません。

並木裕

1949-05-17 第5回国会 衆議院 運輸委員会 第21号

経過地赤井用村地内及び幹線、具知安間の地勢は平坦でありますが、その他はおおむね山間部に属しまして、ことに膽振、後志の國境の山脈と小樽、余市の郡界を回する小樽峠に、延長約四キロの長大なる隧道が二箇所もできる見込みであります。また橋築においても、狭隘なる川岸を通過いたします関係上、二十数箇所も築設を要するので、相当の難工事が予想されます。

藤井松太郎

1949-05-16 第5回国会 参議院 本会議 第28号

トンネル工事としては、北海道石狩膽振國境にある金山峠トンネルと門司市櫻トンネルの開鑿であります。  橋梁に関するものは靜岡縣下富士橋福岡縣下の旧筑後川千歳橋及び早津江橋架橋東京荒川放水路架橋と、西大阪の六間屋川二河川の橋梁について、舟航の支障を除くため修築工事を請願するものであります。

石坂豊一

1949-05-10 第5回国会 衆議院 本会議 第26号

スポーツは、一つのルールのもとに規律ある競技を行うものであり絵画や音樂國と同様に、民族習慣は異つても、國境を越えて、まつたくわりない精神と解釈で行われるのであります。われわれは、このすぐれた競技力精神力の高さとを持つた多くの選手を世界に送り出し、平和國家としての眞價を示すよう努力しなければなりません。

松本瀧藏

1949-05-06 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第22号

それをスーバートルまで持つて参りましたのでありますけれども、あすこにおいて國境檢査のために全部バラバラにされて、名前も何も分らなくなりまして、そうして髪類その他は全部取り上げられたために、殆んど誰の遺留品か分らなくなつた。それを又ナホトカの税関まで持つて参りまして、あすこで更に檢査を受けて、もはや誰の遺留品であるか分らなくなつてしまつたという現状でありまして……

高橋俊哉

1949-05-06 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第22号

入ソしてからは、約一週間と記憶しておりますが、殆んど停車いたしませんで、一瀉千里に國境近くまで参りました。それから行車或いは自動車輸送によりまして、二十年の十二月八日にホジルボロンと称する收容所、これは各作業大隊が先ずここへ集まる收容所でございます。ここに到着いたしました。この間人員の損耗は、蒙古の國境を通りまして、自動車輸送中に自動車事故がございまして、五名損耗いたしました。

小林太郎

1949-04-18 第5回国会 衆議院 運輸委員会 第6号

これはドイツあたりと違いまして——ドイツあたりならば國のかつこうは大体四角で、ベルリンに参りますのに、どの國境から行きましてもあまり差がないのであります。ところが同じ面積をかりに持つておるといたしましても、わが國の場合は非常に細長い、北は北海道果て、南は九州果てから東京に参る。しかるにわが國の國民経済というものは統制経済であつて、一應東京に行かなければ用が足りないようにできておる。

滿尾君亮

1949-04-14 第5回国会 衆議院 運輸委員会 第5号

途中天塩と石狩國境附近は、相当地形が険峻複雑でございますので、大きな隧道ができるのではないか、かように考えております。当局といたしましては、先ほど來申し上げましたような國内情勢でございまして、これを早急に敷設するということは困難でございますが、資源開発についきましては関係方面と連絡をとりまして、愼重に調査研究を進めておるような次第でございます。

藤井松太郎

1949-04-14 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第17号

證人池田重善君) 私の書記をやつてつたところの村上悦治というものが、遺骨や遺髪、診断書を持つておりましたが、ソ蒙國境線を越えて約一時間も経つた頃、外部の方から泥棒が入つて來て、リユツクサツクに入つてつたもの全部持つて行かれたので、そのため住所も氏名も分らなくなつてしまいました。それから函館に上陸してもその情況が分らず、ただ名前だけは分つてつたが、他は何ら記憶はなかつたのであります。

池田重善

1949-04-13 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号

一番初めのは、「曉に祈る」という問題を中心にして國境物語なんかにいろいろ出て参ります、それから他の帰還者からの報告によるというと、吉村隊の中に親衛隊と称するものがあつて、その下には柔道何段である上か、或いは相撲取であるとか、遊び人であるとかいうごろつき風人間がいて、常にノルマ未遂行の人間懲罰に対しては、みずからそういう人聞が手を下して懲罰を行なつたということが言い傳えられておるが、それが事実かどうかということであります

千田正

1949-04-13 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号

それから九月十三日にゴタイの伐採隊に轉属して、十月六日筏流しをやつて吉村隊のいわゆる困難な作業であつたところの筏流し到着場まで筏を流して來まして、アマガランに十月十二日に到着服部隊に編入されて、十月の二十日ソ蒙國境を通過しております。この間に長命隊から鰐淵隊に一週間程應援に行つて來ました。

鎌谷参司

1949-04-08 第5回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第14号

それからウォロシーロフに参りましたときには、大体において東部國境におつた第一方面軍に属する集まつてつた將官が、それには当番も附いており、副官も附いておつて相当賑やかで、毎日賑やかに一緒に暮しておりました。  それからハバロフスクに行つたときは一緒汽車に乘つて行きました。ハバロフスクの駅に着いてから將官、將校、当番とこういう順序に並べということで並びました。

赤鹿理

1949-03-30 第5回国会 衆議院 本会議 第8号

つて日本は、その國境を守るのに、バリケード、大砲をすえつけてこれを守つた。今後の日本は、もつぱら外國人との文化的理解のもとにこれを維持して行かなければならぬのであります。さような次第でありますから、わが國民文化の向上を期するということは、もとよりでありまするが、國民の代表たるべき政治家は、常にこの方向に向つて最大の努力を続けなければならないのであります。  

柳澤義男

1948-11-30 第3回国会 衆議院 運輸委員会 第15号

本請願の要旨は、相生駅より岡山縣西大寺駅に通ずる國鉄赤穗線敷設工事は、昭和十一年より七箇年継続事業として着工され、これは播備國境附近が急匂配でカーブが多いので、列車事故頻発現状よりして、これを防止するために、また赤穗食塩輸送及び当地方の産業振興にとつて不可欠の重要路線である。ついては本工事をすみやかに完成されたいというのであります。

井谷正吉

1948-09-10 第2回国会 参議院 司法委員会資格審査不実記載に関する小委員会 閉会後第5号

共産主義は或るは、第三インターナショナルで、國際共産党で、國際共産党で、國際的な連盟の下に初めて万國の労働者連盟せよと言つた、つまり共産主義の理念から言うと國境を超越した國際共産党、或いはこれを國際社会主義とも呼んでいるのでありますが、その区別であつたと思います。

平野力三

1948-07-05 第2回国会 衆議院 決算委員会 第29号

技術の方面を大いに発達させる、殊に通信とか交通とかいうようなものの発達は、やがて國境にも影響するような重要なものであると思います。そういう方面発達こそ望ましいことである。通信事業は決して補助産業ではなくて産業の基礎であるということは疑いなく信じております。しかしながらそのことを逓信省設置法案を急いで審議を進めるということは、今日の情勢においては必ずしも一致しないような事情にあると思います。

樋貝詮三

1948-07-03 第2回国会 衆議院 司法委員会 第49号

その理由といたしましては、鹿兒島縣は御承知のごとく、九州の最南端いわゆる三十八度線をもつて國境に位する三市百十五箇村人口百七十四万を算する大縣であります。なかんずく鹿兒島市は、空襲によつて灰燼に帰したとはいえその復旧はめざましく、今や西日本の雄都とし、はたまた観光鹿兒島として、大きくクローズ・アップしてきたのであります。  

上林山榮吉

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